生まれて初めて鳥を絞めて食べた。命は脆く、生きるとは罪深く、尊い。
「じゃあ頭を強く叩いてもらえる?」
フィリピン人から「ちょっと財布持ってて」くらいに自然な流れでおもむろに棒を差し出されたわたしは、少なからず動揺していた。
フィリピンの奥地へと
場所はフィリピン、ルソン島北部。
マニラから高速バスで8時間ほど北上した高原都市バギオから、さらにジプニーを使って1時間ほど山奥に入るとそこにはコーヒー農家がある。手間を考慮すると収益性の高くないコーヒーを農家の家族の手作業だけで利益化するのは難しいため、ボランティアスタッフが収穫を手伝うというものだった。
広がるコーヒー農園。
わたしはコーヒー豆が赤いことも、豆を剥くと白い果肉が顔を見せることも、舐めると酸味があっておいしいことも、コーヒー豆として出荷されるまでにはものすごく手間がかかることも、何ひとつ知らずに生きていたことを知った。
バギオからジプニーで山に入っていく前に、サリサリ(フィリピンのコンビニのようなもの)でスタッフが鳥を買っていた。お昼ご飯だよと言われて、あまり深く考えていなかったわたし。
鳥と一緒にジプニーの上に乗ってコーヒー農園についた。
フィリピンでは鳥を飼い、そして食べることは日常の一部である。
例に洩れずこの農家も鳥を飼っていた。静かな山奥の家に響き渡る鳥の声。天気もよく、コーヒー農園の緑は綺麗で美しく、日本とは違ったのどかさが気持ちよくて上機嫌になっていたわたしに、フィリピン人スタッフは言った。
「じゃあこれからお昼ご飯の鳥を絞めます」
フィリピン流鳥の締め方
一般的に鳥を締めるというと、首を切って血を抜く締め方を想像するかもしれない。だけど、この地域では血を流さずに殺すやり方が主流とのこと。
叩いて殺すのだ。
叩くことにより血液が全身に回って、肉が柔らかくおいしくなるのだと言う。恐怖を与えすぎてしまうと筋肉が収縮してしまうので、素早く打撃を入れなければならない。なるほど。
実際にフィリピン人スタッフが締めて見せてくれた。足を持って動かなくしたら、まずは羽を軽く叩き、そのあと体も叩く。
ある程度おとなしくなってきたところで、後頭部を狙って棒を振り下ろす。
バキッと音がして、3発ほど殴ったあと鳥は全身を思いっきり震わせ、動かなくなった。
きちんと絶命したかどうかの確認は、なんと肛門。肛門の収縮がなくなれば、絶命したということなのだそうだ。
説明を受けてから鳥の収縮が終わるまで10分もかからなかったと思う。あまりにあっけなく、一緒にジプニーで旅してきた鳥の命がなくなったことに、少し驚いていた。
そんなわたしに、フィリピン人スタッフは告げる。
「じゃあ2羽目はどうする?やってみる?」
たとえ目の前で鳥が殺されたとしても、それが多少なりとも愛着のある鳥だったとしても。
それを黙って見るのと、実際にやってみるのとではすごく大きな壁があった。見ているだけのわたしはどこか他人事だったのだと思う。
やってみる?と言われてスタッフと目があったとき、忘れられないくらい強くハッとした。
え?わたし?わたしが殺すの?鳥を?え?どうやって??
「やります」
鳥を絞める
まずは先ほどと同じように、鳥を宙吊りにする。
体全体をまんべんなく叩くのすら、一打目はすごく、言葉では言い尽くせないくらい抵抗があった。
軽く叩くだけなのだが、当たり前だけど鳥の柔らかく、そして硬い、生き物特有の触感が棒からでもありありと伝わってきた。鳥は一打毎に苦しそうに呻き、だんだんと動きを止めていく。その後別の人がさらに叩いて、鳥はぐったりと動かなくなった。
「じゃあ頭を強く叩いてもらえる?」
差し出された棒はバットくらいの太さで、ゴツゴツして持ちにくい。鳥の頭と比べると棒はあまりにも無骨で大きく、これで殴られるのは怖いな。とぼんやりとおもった。
後頭部に狙いを定める。鳥の顔が視界にはいる。いつも食べている鳥、誰かが殺してくれた鳥。いまさら綺麗事を言いたくはないが、それでもやっぱり、ネガティブな意味で、ドキドキした。
グニャ。
一打目には躊躇いが拭えず、思い切り振り下ろした棒は後頭部の手前でスピードダウンしてしまい、弱めにぶつかってしまった。苦しそうに鳴き声をあげ、動き出す鳥。痛みを与えてしまって申し訳ない気持ちで泣きたくなった。
フィリピン人スタッフから弱すぎる、もっと強く叩けと急かされ、二打目は力を込めて打った。バタバタと暴れる鳥。そのまま三打、四打と頭を打ち続けた。
首はすごく、脆い。
体を叩いているときよりもずっと、鳥の命を感じた。頭は小さくて、首は細いのだ。一打毎に鳥の感触が手に伝わる。
もう大丈夫だよ、と言われて我に帰る。鳥は動かなくなっていた。
わたしが命を奪った、鳥。
羽をむしり、焼く
絶命した鳥の羽をむしる。
羽を手でむしっていくという、これも原始的な作業だ。羽は引っ張ると思ったよりもスルリと抜ける。全身に生えている羽をくまなくむしるだけで見慣れた鳥の姿が出てきて、おかしい感情ではあるとおもうが、少し安心する。
ある程度羽をむしったら、残りの羽は焼いてしまう。 薪の上に鳥を載せると、あっという間に火がついて羽が燃えていった。1度焼くことで、食べる時に香ばしさが加わるそうだ。
焼かれている時に動き出したりしないか不安で見ていたが、もう鳥はぴくりともしなかった。私が命を奪ったんだなあ、と改めておもう。
立ち込める、鳥が焼ける良い匂い。
そうそれは良い匂いなのだ。 複雑な気持ちだった。
食べる
その後コーヒー農家のおかあさんたちが鳥をおいしく料理してくれた。
「アドボ」という鳥を野菜と一緒に酢と醤油で煮込んだフィリピンの家庭料理である。
味はすごく、すごくおいしい。
肉自体は固かった。
わたしがうまく一撃で締めなかったから、怖かったのかな……。とおもった。
でもやっぱりおいしくて、残さずに全部食べた。
さっきまで一緒にジプニーに乗っていた鳥たち、数時間後には食べられる運命だったんだな。締めるのは本当にあっという間だった。命はなんと脆いことだろう。
そして今わたしはその命を食べている。つい数時間前までは殺したことに感傷的になっていたのに、お昼の時間がきたらお腹がすくし、お肉はいい匂いがするし、そしておいしい。なんて自分勝手!
ありきたりかもしれないけれど、誰かによって生かされているんだなとしみじみおもった。生きるというのはなんて罪深いことなんだろう。
でも、鳥のおかげでわたしが今生きていることを考えると、やっぱり命はすごく尊いんだなとおもった。命の連鎖。
鳥を絞めて感じたこと
割とこじらせて生きてきたわたしは、よくある「アフリカでは子供が飢えに苦しんでいるから食べ物を残すな」というのはなんたる詭弁であろうとおもっていた。
わたしが残したからと言って、アフリカの子供が満腹になるわけじゃないし。無理に食べられない量食べて太るんだったら、残して痩せたいしぃ〜。
鳥を絞めて感じたことは、命が本当に尊いということだった。
物理的には詭弁だけど、食べるということは「命をいただく」ということで尊い行為なんだとおもう。それは感情論でしかなくても。
これはスラム街に行ったときもおもったけれど、食事は素晴らしい行為であることをもっと認識するべきなんだ。わたしは恥ずかしながら、知らなかった。いや知識としては知っていたけど、自分の手で鳥を絞めて、スラムの子達とごはんを食べると、もうどうしてもごはんを残したくない気持ちになるわたしがいた。
わたしという命のために、尊い命を差し出してくれてありがとう。
そして尊い命を買うことができる状況に感謝したいし、お金を得るために頑張った自分を褒めてあげたい。
いただきます、という感謝はこういうことだったんだなと、無知なわたしは30歳にしてやっと気付けたのであった。
わたしはこれからも鳥を食べるし、鳥が大好きだし、食事は至福の行為だ。
もう無駄にごはんを残したり、酔っ払って全部吐くことは心底やめようと誓ったのであった。
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